これはsun &beachで教えてもらった抱っことおんぶの研究所というサイトに紹介のあった本です。絶版になってますが、図書館で借りることができて読みました。

図書館って偉大ですよね。万歳!

アマゾンの原住民と一緒に生活したモデルさんの本です。

『我々の社会にいる赤ん坊はほとんど毎日のように吐いたり「戻し」たりしているが、イェクゥアナ族の赤ん坊がそんなことになるのはごくごく稀である。…我々の赤ん坊ほどストレスに痛めつけられていれば、四六時中病気だったとしても何の不思議もない。赤ん坊が体を固くしたり、蹴ったり、弓なりに体をそらしたり、海老のように体を曲げたりするのも、結局同じ現象で、その奥にはミルクを吐くのと同じ慢性の、深い混乱がある。イェクァアナ族の赤ん坊たちは授乳の後で特別に何かしてもらう必要など全くない。人間以外のほ乳類の乳児だって同じことである。多分この違いの説明は部分的には、イェクァアナ族の子どもたちの方が昼と言わず夜と言わず文明社会でよりずっと頻繁に授乳してもらえるという事実に帰されるのであろう。p80』

→!!!

御子が毎回吐いていたのはもっと頻繁に授乳した方がよかったということなんですね!

クライングコントロールとかジーナ式とかなんだとかやってましたけどもうやめようと思いました。

第2子が来てくれたら何はさておき授乳しようと思います。グーグル調べですがアフリカの女性は24分に1度授乳する方もいるとか。子によるのでしょうけど。

『しかし、研究によって実際明らかにされていることによれば、よつんばいになって這い回るという経験の欠如は後年言語能力の発達に有害な影響を及ぼす。同じく信じられないことに聞こえるかも知れないが、赤ん坊時代様々な位置および恰好でおぶわれたり抱かれたりせず、ほんのわずかの間も雨に濡れたり、光から闇への一日の移り変わりを経験したりもしなかった人間は、成長の後非常に虚弱で、気温の変化について行けず、すぐに乗り物酔いになってしまうらしい。p83』

→!!!

乗り物酔いの原因の1つはこういうことだったのか!

『赤ん坊が成長し、認知能力が覚醒するに従い、赤ん坊はオムツを取り替えなければいけないことがわかったとき、母親がいつもと違う様子をすることに気づく。明らかに拒絶的な音声が発せられるのだ。頭の曲げ方で、母親は赤ん坊をきれいにしていい気持ちにさせてやるのをいやがっていることがわかる。手の動き方はぶっきらぼうで、できる限りそっけなく行われる。眼は冷たい。母親は微笑んでくれない。母親のこのような態度に対する感受性が強まるにつれて、かつては楽しみであったおむつ交換時の歓びに他のものが混じってくる。おむつを替えてもらうとき、気をつけてもらい、触れてもらい、慢性のおむつかぶれがゆっくりと直ってくるという歓びを感じていたのに、そこに当惑がしのびこんで来るのだ。この当惑こそ恐れと罪の意識の先駆けである。p101』

→オムツ替えから罪と恐れが生じる可能性、考えたことはありますか?

これを読んでオムツ替えにも氣を配ろうと思いました。

『(イェクゥアナにてベビーサークルの原始版を発明され、子どもが父親に入れられるところを著者が見た)…自分が閉じ込められてしまったことに気がついた。その途端その子は純粋に恐怖の叫びを上げた。子どもがイェクゥアナの社会でこんな声を出すことは滅多にない。事情は明白であった。サークルはよくない、ヒトの赤ん坊にふさわしくないものなのだ。トゥドゥドゥはごく普通のイェクゥアナとして、連続性の感覚を持ち合わせていたので、自分の息子の悲鳴を解釈し損なうことなどなかった。…サークルからひっぱり出してやり、…何分間か母親に慰めてもらう必要があった。p109』

→私たちが当然だと思っていることは非常に不連続的な不自然なことかもしれない。

常に当然だと思われていることを自分に問いかけ、変化させていくことがこの世を生きる“楽”に繋がるのではないかと思います。

本当に私たちがやっていることは自然か?

自然でないとしたら自然に逆らって何を成し遂げたいのか?何を得たいのか?

『母親の方から関係を作って上げましょうかなどと言ったりすることは決してなく、子どもの働きかけに対して受け身になって相手をするだけである。…母親は完全に、そして喜んで赤ん坊の求めに応ずるが、しかし自分からは何ものをも付け加えない。p118』

→自然。育児書とは違いませんか。何も付け加えない、ヴィパッサナーのようですね。

『(深く掘られた穴があってそこに赤ん坊がハイハイしたのを見て)見たところ穴のことなど全然考えていないようだったが、そのうちやっと私にも、その子が決して本当に危険な領域には近づかないことがわかった。非知性によって導かれている自己保存機構は間違いなく機能する。…いずれの場合も赤ん坊は周囲の状況に関する全責任を自分一人の身に負っている。その子の家族およびその子の属している社会から与えられている示唆というべきものは、自分で自分の面倒くらい見られるだろうということだけである。p119』

→感動しますね。危険なものを遠ざけようとすること自体が赤ん坊に対する信頼の欠如になるのでしょうか。信頼すること、そのようにやっていきたい。

まだまだシェアしたい内容盛りだくさんです。

つゞく…

不自然ですって?

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