ラスト、抜粋、感想です。

『母親が息子に対して極端に強く愛と注目を求め続けると、赤ん坊はあまりにも圧倒的な要求のために後年同性愛に走ってしまう傾向があることは証明された事実である。…しかし実は、息子は成長して行く子どもおよび大人として他人に向けられる自分の心の全てを搾り取られ、消耗させられ続けているのだ。こうしてヒト科のメスからは愛を得られないことを学び、いつくしむのは男の役目なのだとわかった男たちは、男との愛を求めるようになる。p184』

→初めてその機序を知りました。御子にそんな介入をしないよう氣をつけようと思います。

同性愛が自然なことなのか不自然なことなのか、たくさん動物の研究もなされていると思います。何かを避けるが故の愛ならば、それは避ける原因を作らない方が得策かと思います。同性愛を否定しているわけではありません。誰でも何でも苦しみなく自由に表現できればいい、ただし苦痛から逃れるための表現ではなく、本当に私は幸せであるという表現の方が私にとっては、いや人類にとっては心地よいのではないでしょうか。

『病院というのは非人格的存在に見えるかもしれないが、患者に赤ん坊の役割を押し付ける。p187』

→病院はある意味お母さんなのですね。

『我々の社会内部でも、主婦たちは家にいていつまでもつまらない生活に苦しむ妻であり続けることを止め、近所の友達と一緒に家事を片付けるように生活を組み替えることができるはずだ。…母親やそれ以外の大人たちは集まって有益かつ楽しみながら仕事をし、子どもたちの方は子どもたちだけで遊んだり、おとなの仕事を手伝ったりする。子どもたちに対するおとなの注意は最小限にとどめ、おとなの仕事に子どもも加われるよう気をつけてやる以上のことをしない。こうしておとなの注目の的でなくなり、心の隅に入れられるだけになると、子どもたちは自分なりの興味の対象や自分にふさわしい調子を自発的に見つける。…子どもたちはそもそもできる限りおとなと行動をともにすることが望ましい。p208,209』

→素敵な話です。私も御子が許す限り一緒に行動したいなと思っています。

『イェクゥアナ族が取引する場合にも、その基底にあるのは新来者を迎える場合と同じく、何においても緊張状態を作り出すまいとする意識のようである。p215』

→診察においても応用できることです。緊張状態、作り出している時あるので反省です。

『インディオ達は互いに裁き合うことが誠に少なく、個人差に対して大変寛大である。もしかするとそれも、彼らが充実した人格の持ち主であることの表れかもしれない。我々の社会でも、欲求不満のひどい人、そして疎外されてしまっている人の方が、他人を裁きたがる傾向が強いことに間違いない。彼らは個人であれ、社会内の集団であれ、宗教、政治、国籍、人種、性、果ては年齢まで、あらゆることで難癖をつける。この種のわけのわからない憎悪の裏にあるのは自己憎悪であり、それは赤ん坊時代に自分は正しいのだと感じさせてもらえなかったために生ずる。…我々文明人の悲劇の大きな要因は、我々がヒト種の一員としての「権利」に対する感覚を失ってしまっているところにある。…「あんな大きな生き物を町中のアパートに閉じ込めておくなんて残酷よ」などと言うことがある。これはしかし犬の話で人間の話ではない。人間の方が犬より大きいし、環境に対しても敏感なのに。p219,220』

→!!

あいつが悪い、こいつが悪い、なぜこの人はそんなことばかり言うんだろうと感じる時あります。そういう人は憎悪があって、それが実は自己憎悪で、自分が正しいと小さい時に感じさせてもらえなかったのか!!とわかると慈悲の心が湧いてきますね。ああ、この方が満たされますように。腑に落ちる内容です。

後半の、「あんな大きな生き物を町中のアパートに閉じ込めておくなんて残酷よ」のくだり、シニカルですね…。

『いつでも養育者の体と触れ合っている赤ん坊は、養育者と共同のエネルギー野をもつことになる。したがって余分なエネルギーがあったとしても、それは養育者の運動だけで解消され得るのだ。赤ん坊の方は緊張を知らず、のんびりしていられる。余分のエネルギーは養育者の方に流れて行ってしまうから。

腕に抱かれっぱなしのイェクゥアナ族の赤ん坊と、ほとんどの時間肉体的に他者と切り離されたままにされている我々の赤ん坊のふるまい方は、大変対照的である。イェクゥアナの赤ん坊たちは体が柔軟で、扱いやすく、抱いたり、運んだりするのになんの差し支えもない。それに対して我々の赤ん坊ときたら、まっすぐに足を蹴り出し、腕を乱暴に振り回し、背中を反らせて弓なりになる。ベビーベッドの中でも乳母車の中でもあちらこちら動き回り、暴れ回って、抱き上げようとしてもなかなかおとなしく言うことを聞いてくれない。我々の赤ん坊は体の中にあまりにも多量のエネルギーを取り込んでしまっている。そのために恐ろしい緊張が生じ、赤ん坊自身ではそれを穏やかに片付けられない。p225』

→面白い内容。私は初めての子を育て中ですがベビーカー、ベビーベッドも使わず極力おんぶ、抱っこにしています。そのせいなのかおんぶしている時大勢の方に「本当におとなしいね」と言われます。余分なエネルギーは私の運動で解消されているのかもしれません。暴れまわることも今のところありません。

『自分のいのちの連続性の内部に居心地よく収まっている赤ん坊は、自分から何かしようとすることはない。そういう赤ん坊はあくまでも受動的であり、エネルギーを発散させるために何かすることもない。そういうことは赤ん坊を抱いているおとな、ないしは子どものやることなのだ。ところがこの同じ赤ん坊が腕に抱かれているべき時期を終え、はい始めた途端、状況は180度転換する。赤ん坊のエネルギー循環は今や完全に赤ん坊自身によって行われねばならない。…赤ん坊は邪魔さえなければいくらでもはい続け、行ける限りの場所に出かけていく。赤ん坊はこうして自分が暮らすことになる世界を知るために余り余っているエネルギーを有効に消費する。…しかしなんらかの理由で活動を妨げられてしまっている場合、子供はもはや充分にエネルギーの発散ができず、快適に暮らすことも不可能になる。文明社会ではあまりにもそういう場合が多すぎる。外で遊べる時間が短すぎ、家の中で動ける場所が狭すぎ、サークルの中に閉じ込められ…p226,227』

→我々の赤ちゃんや子供はエネルギーの行き場を失っているのですね。この文には続きがあって赤ちゃんや子供が自慰行為をするのはエネルギーがあまり過ぎているようなのです。いのちの連続性、重要。

『もっと細かくいうと、博士たちはまず、全四肢を使って乳児期の然るべき期間這い回ることができていない人間は、言語能力を完全に発展できていないことに気づいた。…とにかくそういう人たちのうちどもりになってしまっている者に対して、1日1時間前後赤ん坊のように這い回ることを命じ、それを数ヶ月続けた結果、どもりの症状は消失した。p232』

→どもりが出たら這い回るとどもりが消える。凄い!何歳からでも良いのでしょうか?ハイハイパワー恐るべし!

『人間サンドイッチを拡大して人間の長い列を作ってみたらどうだろう。座りやすいベンチを並べ、全員が一方向に向かってベンチをまたいで座り、すぐ前にいる人をうしろから抱く。人数が相当数になり、円形にベンチが置ければ、そこにいる全員が前も後ろも誰かがいるという状態を享受できる。p235』

→これは神田橋先生のおんぶ理論に通じるものがあります。うしろから抱かれて前は別の人を抱くという無限充電法!

『赤ん坊は単に当然ついてくるというだけのことである。…問題はひたすら我々自身が赤ん坊中心の思考パタンから抜け出し、我々おとなにふさわしいパタンを取り戻せるかどうかである。…ヒトとしての連続性が正常に機能するのを妨げる要因は山のようにある。…母親が赤ん坊をどこにでも連れていくことを認めない風潮。…ただその場合も、遊ぶ仲間は完全に同年齢の子供に限られていることが多いし、保育者ないし教師たちはあれをしなさいこれをしなさいと言いつけることが多すぎる。そんなこと言うよりあっさり自分が何かやって見せれば、子供たちは黙ってそれに従うだろうに。p243』

→赤ん坊中心の生活をするのは逆に連続性から外れるので自分の生活を大事にしながら赤ん坊と生活するとよいと。生活しながら一緒にいることの大切さを書いてます。

できるだけ私も御子と一緒にいようと決意を新たにしました。

今のところ問題なく育ってくれています。いや、普通より身長が低いと言われていることを除けば…。

精神の悩み、体の悩み、遡れば赤ん坊時代が原因のことも多いと認識しました。

赤ん坊をできるだけいのちの連続性の中で育てたい…そういう意欲をかき立てる良書でした。

変顔って何ですか?

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