クリスティアン・ラーの手放す瞑想のセミナーに参加しました。
ヒーリングがとても素晴らしい方です。
12名が浄智寺にて集まって実施。
忘却のベールを取る瞑想というのがあるのですが、まずそれをやりました。第三の目を目覚めさせる作用があるようです。続けてやれば。
なんで人間が忘却のベールをまとっているかというと、みんな一つである、神そのものであるという繋がりを忘れることにより、どういった経験ができるか、何を創造できるかをこの地球で大実験しているからというような趣旨のことを話されました。
これはフラワーオブライフという宇宙一の夫を紹介くださった方のオススメの本にも同じようなことが書いてありますが、私はこの説とても好きです。
繋がりを失っていると不足に目がいき、不安、分離体験、孤独などが生まれてくるのですが、それで何を創造できるか、この大実験の趣旨をわかっていれば、この実験を続けるか、もしくは再び繋がりを取り戻すかを選択できるという可能性が生まれます。
わかっていてやるということ、わからずにやるということ、苦しさが違うと思うのです。
「ああ、私、地球でこんな実験してんだな。でも苦しいから実験やめて、元の私に帰ろう。」
と思うと楽じゃないですか?
出口のない問いをするよりかは、こんな出口を見据えながら生きる方が軽々、楽しく生きられるのではないか。
そういう意味でこの説は好きですし、直感的にそれは真実かと思ってます。
ところでその瞑想をやった時に、私は黒い液状の生命で、ある物を無くしたために元の形に戻れなくて彷徨っているイメージが出ました。
このイメージがのちにやった手放すべきものや、手放す瞑想にストーリーは続きます。
その次に手放したいリストを書き出しました。
私は書き出すまでもなく日々思っていることを言いました。
眠ること、食べること、着ること、住むこと。
衣食住と睡眠という人間の根本的に必要だと思われていることです。
そういったことを氣にせず生きられるようになると人類はやりたいことを制限したり、対立や争いはなくなり、とても創造的にパワフルに生きられるのではないかと思うのです。
それは「自分という存在が肉体そのものだと思っている思い込み」という風にまとめられ、実際にムーラムを呼び出し1番手放したい思いがその思い込みか聞いてみました。
するとそのまとめは違って「肉体に対する執着」と訂正されました。
その時、ふと確かに、私がやっている修行というものは肉体に対する限りない挑戦(不食を目指すとか、薄着になるとか、ホームレスになりたいとか)だと氣づきました。
そしてなぜそんなことをするかというと肉体に対して執着をしているからなんだと。
これにはびっくりしました。
この前の瞑想で出てきたイメージも、肉体というものに執着するが故に彷徨っている姿でした。
そして、遂にこの執着を手放す瞑想をしました。
頭上に光の玉をイメージし、それを体を通して地球に移動させ、また体を通して頭上に戻すという作業を7回ほどやった後、この思い込みを光の中に放り込んで溶かしていくイメージをしたのでした。
するとこの思い込みが黒い蜘蛛のイメージだったのが、光に溶かすと機械に変化して、その時に「ただこの機械と遊びたかったんだ」と氣づきました。
ただ、この肉体という制限の中で遊びたかったんだと。
この作業が終わった後、徐々にそういった信念が手放していけるという話でした。
肉体への執着に氣付くことができて本当に有意義な時間でした。
このところ体も心も変化が続いています。
確かに新たな自分に変化しつつあることを感じます。
瞑想することを忘れることが多いですが、忘却のベールを取る瞑想は思い出せる限り、日々続けていきたいと思います。
これが僕の瞑想法!
御子、レベルが高いです。
最近のコメント